どうしたら

美少女になりたかった

ギャルとヲタクと(ヲタクの理想とする)ギャル

 

私は新しいものに飛び込む力が無い。無いというか、年々無くなってきている気がする。本を読もうと思っても、どんな装丁の、どんなタイトルの、どんなあらすじの、なんていう作者の本が面白いのかわからなくなってきていて、最終的に昔読んだ本を反芻するかのように読む。ああ、このシーンあったな。これ読んだ時こんな気持ちだったな、と、凪のような感情を抱えている。ここ最近はそんな感じなのに、図書館には恐ろしいほど本の背表紙だけがあって、何がオススメなのかすら分からず私はいつまでも好きな作家の本や一度読んだ本を再読している。昔今よりもっと本を読んでいた頃は、割と装丁だけでピンときていたりしたんだけどなあ。あの時の感覚はどこにいってしまったのだろう。これが衰えるということか。

本に限らずに、最近は冒険するのが極端に苦手になってきていて、新しい好きなものを見つけるのが難しくなってきてるのだけれど、最近「これは好きだな‥」と思えるものが増えてきたのでメモしときたいと思う

 

 

音楽

女王蜂というバンドの曲を最近よく聴いている。名前自体は結構昔から知っていて、気にもなっていたけど、なんとなく聞かず終いだった。しかし最近、昔好きだった邦楽を聴くザ・懐古厨ゾーンに入っていて、ふと思い出して改めて聴いたらかなり最高だった。音も、ボーカルの声も、歌詞も個人的にすごく好みで夜通し聴いた。薔薇園アヴ(さん)の書く歌詞は、どれもドロドロしていながらも、生気に満ちあふれている感じがする。なんとなく生活を思わせる歌詞も好き。火炎とかヴィーナスとかデスコとかワンダーキスとかをよく聴いている。我ながらあまりドロドロしてない方を聴いているなぁと思う。折り鶴とか、告げ口とか、もちろん大好きなんだけど、でも少し避けている節があって、それはなぜかというと準備をしてない時に聞くと疲れるのだ。薔薇園アヴ(さん)のインタビュー記事を読んだのだけど、折り鶴も告げ口も、狂気を孕んでいるとかよく言われるけどそういうつもりじゃなくて、現実にあるものをモチーフとして書いたつもり、というような事が書いてあった(まちがっているかもしれません)。なるほどなと思った、確かにそういった現実もどこかにあるし、それをモチーフとして作詞する事も、作詞家からしたらただそれだけのことなのだろうけど、ひとつの作品として聞いたこれらは、怨念に似た悪意をひそめている曲であると思う。あまりに生々しい作品から、リアルを感じてしまって、聞き手はそれを恐れる。自分がしたつもりの表現と、評価が乖離して、作詞家は少し困惑する。そういうやりとりはきっとどこにでもあるのだろうな〜と思った。もちろん折り鶴も告げ口も大好きなので、準備ができたらじっくり聴いて、聴いた後にはいつも すごい曲だなぁ‥ とつぶやいている。

 

 

漫画

「その着せ替え人形は恋をする」という漫画を読んだ。内容はラブコメなのだけど、すごかった‥‥。最近オタクがギャルに振り回されたり、仲良くなったりする漫画増えてると思うのだが、この漫画はギャルとオタク、どちらの要素も併せ持つ女子高生が登場する。要はオタギャルと、男だけど雛人形に魅了されて暮らす男子高校生が、ひょんなことからオタギャルの推しキャラのコスプレ衣装を作ることになる、というラブコメ漫画だった。

このギャルでもありオタクでもある女子高生の「喜多川海夢(まりん)」ちゃんがもう最高に最強なのだ。そもそも最近のギャル×オタク漫画のブームといえば、オタクに理解のなさそうなギャルが、強引に距離を詰めてきて、「なんの漫画読んでるん?」「◯◯クン、絵描けるヒトなん?見して〜」などとちょっかいを出してきてくれて、オタクがあわあわしながらも徐々に親密度を上げていくという構図がウケたと思うのだけれど、彼女こと海夢さんはそのハイブリッド的存在だ。海夢さんはギャル、スクールカーストぶっちぎりの上位でありながら、オープンなオタクである。カバンにつけている推しキャラを嘲笑いながら話しかけてきたナンパ男を容赦なく斬り捨てる。一方男子高校生の主人公は、雛人形が好きだがそれが原因で嫌な思いをした経験があり、他人に自分の好きなものを言えず壁を作り、カースト下位にいる。そんな対照的な2人が織りなすストーリーなのだが、何度も言うようにこの海夢さんがすごすぎる。強引に距離を詰めてくるギャルのテンプレート化されたキャラはそのままに、エロゲーを嗜みコスプレに憧れるオタクという要素までプラスされている。男女の溝がまるでないかのように接してくれる海夢さんは、エロゲーをオススメしてくれるし、ガーターベルトが推しキャラに似ている!と、着用してはしゃぎながら見せてくれたりもする。その無防備さ、天真爛漫さにドキッとするのだ。ア〜私もギャルに振り回されたい。でも私は漫画のギャルと違い現実のギャルはそんなに優しくないことを、今までの人生経験の中で知ってしまっている。いや完全に人によるが、少なくとも地方に住んでいる私の身近にいるギャルとヤンキーの境目のようなギャルは全然優しくない。彼女たちには無防備さ、無神経さだけがあり、トイレのスリッパでそのまま出てきた人を見るみたいな気持ちになる。だから余計に漫画の中の、優しくて天真爛漫で、無防備で距離が近くて、軽い口調でからかってきてくれる、漫画のギャルに愛しさを覚えてしまうのであろうと思う。私もギャルに振り回されたいとか思っていたが、この感情はもしかして、女友達が少ないからこその感情かもしれないなと気づいた。女友達に構って欲しいと言う感情の表れ。だとしたら悲しすぎませんか、自分。

 

 

なんなん

 

※ほぼ愚痴日記ですので読んでも生産性がないです

 

 

 

 

 

暖かな春の陽気も少し感じられる今日の頃、皆さまどうお過ごしでしょうか。

わたくし水面といえばですね、好きな季節1位は秋、2位は春、と言って憚らない普遍的人間だったのですがそれも今年まで。今後は春が嫌いになってしまいそうです。お察しの方もいらっしゃるでしょうが、多分、おそらく花粉症デビューしてしまいました。

 

先週の木曜日仕事から帰ると具合がめちゃくちゃ悪くなって、具体的に言うと喉がイガイガして鼻がずるずるになっちゃって、寒気もして微熱もあった。20時くらいには寝た。寝てる最中も熱が上がって、38度近くまで上がってつらかった。翌朝には熱もなかったけど、やっぱり調子が悪くて病院へ行った。

「喉が痛くて微熱も出る?」

「へぁい」

「食欲はある?」

「あります」

この症状を訴えておいて、食欲はあります!と元気よく言えるのが恥ずかしかった。でもあるんだ。なんだったらその夜は元気出そうと思って大好きなフライドチキンを買ったし。

結局、インフルエンザではなさそうだね‥とのことで咳の薬と抗生剤をもらった。これで治るぞ〜〜と思ったのもつかの間だった。指示通り病院から処方された薬を半日ほど飲んだ。普段であれば早ければこのくらいで、遅くても1日くらいで効いてきて、やっぱり病院はすげーなぁ‥としみじみ感心するのだが、全く効きそうになかった。寝込まずにふつうに動けるくらいにはなってきたが、イガイガした喉から大げさな音を立て出る粉っぽい咳と、頭がうろんになってしまうような鼻詰まりがキツかった。やっぱりインフルエンザの検査した方がよかったかしらん。販売業をしているのでインフルエンザが怖い。怯えてる間に、妹が遊びに来た。メッセージで風邪が出たことは伝えていたが、症状と薬を飲んだのに治らないことを愚痴めいて伝えた。

「あのさぁ、それ、花粉症だと思うよ」

 

嘘。

わたしの知ってる花粉症の症状と違うけど!!!

「だってお前さっきからめっちゃくしゃみしてんじゃん」

してる。してるけどこれは寒気によるものかと思う‥。

「私も母も花粉症なんだから花粉症だよ。多分。少なくとも症状全く一緒だよ」

花粉症で熱でないでしょ

「出るよ。私も母も毎年出てるよ」

うそ‥‥‥‥‥‥

 

なんということだ。全く知らなかったが、妹も母も春になったら熱を出していたらしい。花粉症全般そうなのだろうか、それとも、熱が出るのは我が家の家系的なものなのか?

想像だにしていなかった指摘に、私が愕然としていると、しばらく滞在していた妹が帰り間際、にやりと微笑んで言った。

「‥気づいてないと思うけど、お前と私の咳の仕方全く一緒だからね」

トドメのような、 ひとことだった。

 

妹は帰り、私は考えていた。たしかに花粉症であれば全ての辻褄が合う。そういえばこの症状が出る前後、少し目が痒いと感じることもあったし、咳もいつもの自分のものに比べると、粉を飲んで噎せたような咳だ。なるほど。

私は花粉症だったのか‥。

そうして私は花粉症ロードを歩みはじめた。心構えをして、この運命を受け止めた。

 

 

運命を受け止めたとか言ってるけど、ヴェポラップ塗ってもひどい鼻づまりで日中はボーーッとしてしまうし、うぇっほ、みたいな咳で熟睡してても起きてしまうし、だいたい今午前6時30分だけど、昨日も5時くらいにこの症状で起きてしまった。2日連続で同じ要因で変に目覚めてしまった。睡眠が好きな私には結構きついのです。

これやっぱ風邪じゃないの?

風邪だったらしばらくしたら治るよね?

でも花粉症だったら春の間から続くよね?

春っていつまで?

梅雨まで?え 無理‥‥‥

これやっぱり風邪じゃないの

これやっぱり風邪じゃないの

これやっぱり風邪じゃないの?

風邪の方がまだマシだったな

 

 

 

普通の日記とももクロについて

 

今日は疲れた。

足が棒になってしまった。コンバースのピッタリとしたサイズの靴を買ったので仕事中ずっと履いていたら、足を固められたようになってしまって終始痛かった‥‥‥。コンバース買うときはワンサイズ大きい方がいいらしい‥

 

ラーメン食べたくなって止まらなくなってしまったのにラーメンを食べれなくて結局リンガーハットに落ち着いてしまった‥しかも皿うどん‥‥美味しかったけど。未だラーメン食べたい欲が強い。1人ラーメンしたいなあ

 

 

 

ももクロが好きだ。

もう7、8年応援し続けている。ももクロの好きなところは単純に、きれいな娘たちが楽しそうにしているのを見るのが好きというのと、宗教っぽいことを結構やっているのにバレていない(かは謎だけど)ところが好き。ももクロの宗教っぽい歌といえば「GOUNN」だけど、あれはわざと、っぽさを出した作品だと思っていて、それよりもっと隠している宗教っぽさがある‥という気がする。彼女たちにそういう思想があるかどうかはとりあえず置いておいて、作品として、そういう「神」的な要素を匂わせてくるのが、良いなあと思っている。

例えば「LOST CHILD」とかは曲調こそそうでもないけど「あわてることはない、‥」という歌詞から続き夏菜子ちゃんの「けれど その力は決してなくならない」のとこは最高にエモいしかっこいいし大好きだ。じゃなかった。あのへんのフレーズはかなり、なんというか、百田夏菜子を教祖としてる感じが凄くする。振り付けもそんな感じだし(個人の主観です) 

ももクロの曲で一番宗教っぽくて一番好きな歌は「桃源郷」なんだけど、この歌は神さまはみんなの心にもいるけどやるのは自分だから自分の心が導く答えに向かって新しい世界に行こうね、的な歌なのだ。初めて歌詞カード見ながら聞いた時、「これ宗教ソングじゃん!!」って思ったのに割と誰も言及してなかった。気がします。間違ってたらすみません。生まれ変わる的な意味合いももちろん含んでるんだろうけれど、ももクロを教祖とした新世界企んでるのかな‥って6割くらい本気で思った。

 

でももしももクロが教祖とした宗教ならば、時系列によって立場の変わる(という言い方で通じるのかどうかはわからないけど)教祖だと思う。

 

初期 → 友人のように接する、または恋人のように

中期 → 叱咤激励する、わりと偉そうなことを言う

今    → 母のように包み込んでる。微笑み。圧倒的母性

 

‥という感じなんですよね。

入信してきた当初はまず心を開かせ、それから弱い部分を出してきた相手に厳しさ8割優しさ2割くらいの叱咤激励をする。そして7割がた、宗教の教えになじませたら、あとは受け入れる。母のように。そういった宗教的段階をももクロは踏んでいる気がして、そこが好きです。別に宗教的段階なのであってももクロ ⇄ 宗教 と結び付けたいわけでは本当にないのですが伝わるかな。

てかこの話自体が、伝わる人いない気がするな‥

 

 

亞子だった自分に会いたい

はじめまして。水面と申します。

しがない主婦をやっています。

↓こちらは普段の私のイメージ図です。

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こんな快活に料理をしていると言ったら嘘になりますね。もっと死んだ目で毎日毎日三食分の料理を作っています。でもこの画像で炒めている具材の少なさから見てこの方のズボラさと私のズボラさは同等かもしれませんね。


失礼、話が逸れました。

突然ですが皆さまは、学生時代、もしくはたった今学生の方、「陰キャ」でしたか?はいと答えたあなたは私と握手、いいえと答えたあなたは学生時代を回顧しつつ、その楽しく幸せな心持ちのまま教室ごと遭難して教壇に立ったビートたけしからバトルロワイアルのスタートを宣言されてください。陰キャは逃がす

ここまで読んでいただければわかる通り、私は学生時代、怒涛の陰キャでした。教室の隅っこで本を読んでいたりイラストを描いていたりしている学生いますよね?それがまさに私。友達も片手で数える程度しかおりませんでしたし、なんなら中高一貫してその調子でしたので、両親には大変心配をかけておりました。彼氏ができたと報告をした際、両親が心から嬉しそうな顔をした事と潤んだ目元が忘れられません。

 


それだけならまだ良かった(?)のですが、当時の私は長いこと中二病をこじらせた腐女子でした。

さてここでもう一つ皆さまに問いかけさせてください。暇を持て余した腐女子が何をするかご存知でしょうか?

サイトを作り創作活動に没頭するのです。

 

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※当時の自分に似ている。ファッションとか腕のムチムチ感とか、うりふたつで見るたび胸が痛む

 


キャラクターとキャラクターとの恋愛を妄想するようになった腐女子は、その妄想を作品に昇華させたがります。ほとんどの腐女子がそうであるように、私ももっぱらそうでした。ある時はルーズリーフに攻めと受けとのとても親には見せられないような内容の小説を書き、またある時は授業中に際どい絡みをしている肌色の多いイラスト(ただし画力がなく横顔は難しいので避ける)をこそこそと描き、それを数少ない友人と見せ合いっこするという生活を送っておりました。お陰で学生時代の思い出はほとんどが紙とともにあり、当時自室の掃除をして廃棄した紙の量はゴミ袋3袋分だったと記憶しております。

しかし紙媒体に飽きた腐女子は、インターネットで作品を公開したい!そして新たな同士が欲しい!と胸を膨らますものです。今でしたらTwitterやPixivなどといった、趣味に特化したコミュニティサイトはいくらでもありますが、当時はそんなものはなく、私のそばにあったのはイラスト一枚読み込むのに5分~10分ほどかかり、さらに心配した親がつけたフィルタリング機能でかなり制限がかかった悲しきガラケーのみ。

しかし私はそんなガラケーを駆使して、自分だけのサイトを作り上げたのです。就寝時間は23時と決められていましたが、親の目を盗んで深夜まで布団にくるまりながら携帯をポチポチし完成させ、本当にお腹を痛めて産んだ我が子のようなサイトでした。小説をメインとし、ブログ、掲示板などを設けたサイトで、HNは「亞子(あこ)」でした。

運営は楽しく、交流する仲間も少しずつ増えていきましたが、唐突に飽きた私は更新自体をやめてしまいました。そして私が作ったサイトはインターネットデブリのどこかに消えてしまったのです。

 


いつしか結婚して、慣れない暮らしに悪戦苦闘しながら、そんな日々を黒歴史と笑って蓋をして、徐々に忘れてゆき、趣味に没頭する暇もなく生活していた私でしたが、先日ふと思いました。

 

私は亞子であった自分を馬鹿にしている。亞子であったことがそんなに恥ずかしかっただろうか?と。

 

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当時の私は自分や自分の趣味を大事にできていて、漫画を楽しく読んだり、必死に小説を書き上げたり、それなりに充実した豊かな暮らしを送っていた気がする。それにひきかえ今の自分は忙しさにかまけ、自分を大事にするどころか趣味もなくただ漠然と生活に追われる毎日。どちらの自分が胸を張れるのか、声を大にして「しあわせです!」と言えるのか、分からなくなってしまいました。

 

 


「亞子に‥‥‥会いたい‥」

ふと気づけば、掃除機をかけている私がそう呟いていました。


それからすぐに、私はスマートフォンを持って検索エンジンにいくつかのワードを入れました。

それは記憶の片隅から引っ張り出してきたモノ。

亞子だった頃の私の破片(カケラ)‥。

 


『亞子      ◯◯×◯◯』

『◯◯×◯◯    ランキング    小説メイン』

『亞子    Alfoo   日記です』

『◯◯×◯◯    ランキング    R18も有 ※パス必須』

 


‥‥‥‥だめだ。引っかからない。

本当に忘れかけていた記憶の数々を、体力や精神力を消耗しながら検索してみたのですが、私が当時作ったサイトはインターネットという広大なコズミックから姿を消してしまったようです。私はがくりと肩を落としました。HTMLタグ一覧表を見ながら、必死で打ち込んだり、大好きな他のサイト様のバナーを直リンしないように慎重に慎重を重ねた、亞子の、私のサイト‥‥‥‥もう二度と見ることはかなわないのか。私は出そうになった涙を、グッと飲み込み決意しました。

 

「‥‥‥‥消えてしまったのなら、作ろう。あの頃の自分、亞子のように‥‥‥」

 


こうして私の黒歴史再現ははじまったのです。

 

 

 

 

 

〜 第1章 懐古 〜

まずはサイトのサーバーを取得するところから始めました。当時使っていたサーバーはフォレストページ、しかしまだフォレストページがあるのかすら分からない‥‥。不安に思いながら検索します。

 

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めちゃめちゃあった〜〜〜〜〜〜〜〜

しかも当時と体裁があんまり変わってない〜!!!

懐かしい〜〜!ノスタルジ〜〜〜〜!!!

 

興奮しながらも、基本的な入力をはじめます。

 

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名前はもちろん亞子にしました。

高校生なのは当時を思い出そうとしました。痛々しっ。

当時からだったかはうろ覚えなのですが、フォレストはタグを独自開発することによって作成を簡単にしているそうです。これで一覧表とサイトを行ったり来たりしながら睨めっこする必要がないかと思うと感動して涙が出ますね。

 

「なんだ、意外と簡単に亞子に会えそうじゃん」

 

そう笑った私でしたが、考えが甘かったとすぐ思い知らされました。

 

 

 

 

 

〜 第2章 老い 〜

 

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編集メニュー多すぎ。

 

細やかなところまで自分の好きなようにカスタムできる素晴らしい作成サイトでしたが、いかんせん私は30手前のめんどくさがりな女性。生命保険の加入プランですらも保険会社のお兄さんに薦められたまま決めてしまう私には、この作業は正直辛すぎました。

あと、当時と違いモチベーションがなさすぎて、作成途中で「こんな時間まで起きて何やってんだろ‥‥」と我に返ってしまうのがかなりしんどかったです。

とはいえ亞子に会いたいと言い出したのは自分ですし、何よりこの深夜に布団の中でサイトを作るというシチュエーションでかなり昔を思い出し、とても懐かしい気持ちになりました。

 

かくしてサイトを作り出して2時間ほど経とうとしていました。深夜から始めたサイト作成でしたが、窓の外から朝の気配がして私は焦燥感に駆られました。明日も早く起きてゴミ出しに行かねばなりません。

 

 

 

 

〜 第3章 懐かしい 〜

 

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え、なつ〜い

 

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うわ   キリ番文化あったなあ。

めちゃくちゃ絵が上手で好きだった他サイトの、キリ番踏みたくて暇さえあればリロードしてたな。結局踏めなかったけど‥‥。

 

 

 

ただひたすらに懐かしさに浸ってました。

 

 

 

 

 

〜 最終章 〜

 

そして空が白んできた頃、ようやく、私が亞子だった時代のサイト再現が完成しました!

こちらが私こと、亞子の「苺色乙女ノ憂鬱」です。

 

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我ながらかなりの完成度でびっくりしてます。

 

当時はゴシック系のデザインが流行っておりまして、黒背景にピンクや、もっとおどろおどろしくしたいときは赤で文字を表記させたものです。

ゴシックでちょっと怖い人なのかな‥?と思わせた後は、コンテンツ部分をひらがなにして可愛くしバランスを取る、という謎のバランス理論を展開しているサイトデザインも当時よく拝見しました。

 

コンテンツの中身を少し見ていきましょう。

まずは「◎ はじめに ◎」から。

 

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カップリングは架空です。

 

正直に申し上げると、「はじめに」にあたる部分に何を記載していたか本当に記憶から抜け落ちていたので、このページは以前通っていたサイトを参考に作成しました。注意事項やサイトの傾向、軽い自己紹介‥‥初めて入室するサイトではまずこのページを見て、管理人の人柄を推測したものです。

 

 

 

続いて「◎ おはなし ◎」へ。

 

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同人小説にはざっくり分けて2つの種類があり、ただキャラクターがいちゃいちゃしている内容の「健全、全年齢対象小説」。そして、大体隠しページにしてあり、読んでるところを親に見られるともれなく死ぬ「R18小説」です。このサイトには前者の「健全モノ」が多いということになりますね。

 

 

 

さらに下へ。「◎ せいかつ ◎」に潜ります。

 

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こちらはリアルタイム日記と呼ばれるもので、Twitterがない当時におけるTwitter代わりの役割を担っていました。陽キャのクラスメイト達は、デコメなども使えるもっと派手派手しいリアルタイム日記のサーバーを使っていたものですが、陰キャの私たちは同人創作サイトでネットの虚空に向かいリアルタイムを呟いていました。ここまで書いたところで思いましたが、私が現在使っているTwitterの使い方となんら変わってないです。

 

 

 

最後に 「◎ ぱちぱち ◎」とイラつく表記をされたこちら。

 

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キッッッッッツ。

もうこれに関しては何も言いません。こういう文化があったんです。本当なんです。

 

 

 

 

〜 エピローグ 〜

 

思いつきだけで始めた企画でしたが、しっかり過去の自分と向き合うことができたような気がします。亞子の頃の私は、自分の好きなものをしっかり把握していて、またそれを表現する能力もあったのだろうと思えました。少なくとも今の自分よりはその力が強かったのでしょう。素晴らしいことです。

ですが、今の私は立派な大人で、仕事や家事、交際に忙しく、そんな立場から亞子を見るとまだまだ子供だなと言わざるを得ません。黒背景にピンク文字でサイトを作成してしまうと、見る人の目がチカチカするかもしれない、など周囲に気を配る思考ができないところなど、あまりにキッズで失笑してしまいました。何より大人になってしまった私から見ると、このサイトを作るのに睡眠時間を費やしている我が子を見た両親の気持ちをより考えてしまい、少し胸がキュッと締め付けられました。

今回亞子と再会し、心から自分が大人になれてよかったと、胸を張ることができました。こんな企画で自己肯定感が高まったことに若干の戸惑いを感じていますが、これにて完結したいと思います。私はゴミ出しをして二度寝します。

 

 

 

 

 

 

‥‥‥‥そういえば、昔のこういうサイトには「裏ページ」というものがありましたよね。

このサイトにはないんでしょうか。ね。

 

 

→ → → http://id52.fm-p.jp/651/ichigoiroako/

 

 

〜 fin 〜

 

 

 

鈍色の通夜は様相を成していないパーティのようだったからとたんにわたしはつまらなくなった

「魔女の子供はやってこない」という本を読んだ。矢部嵩さんという作家を詳しく知らなくて、この本で知ったのだった。装丁のイラストの方はよく知っていた。小島アジコが書く幼い少女たちが描かれている(ちなみに私個人は小島アジコがあまり好きではない)。ひょんな事から知ったこの本を電子書籍で購入して読み進めていくうちに奇妙な世界観とポップな文体に虜になってしまった。悪夢だったのにはちゃめちゃで異様に楽しかったみたいな夢を見たあとのような読後感。ホラー小説というカテゴリらしいけどホラーだったのかは結構疑問だった。


読書家とはいえなくてもそこそこ本を読んでいた私が思春期に読んで一番印象に残っている本は桜庭一樹の「推定少女」や「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」といった少女小説だった。詩的な文章はふたりの少女の世界観の為だけにあった。この「魔女の子供はやってこない」も、銘打ってはいないものの少女小説のカテゴリに入れてもいいんじゃないかと思える。

すんげえ素敵な小説だったのに、割と誰も感想を書いてなくて、もっといろんな人の感想が読みたくて、とりあえず自分で書いてみようと思って書きはじめている、ので、乱筆乱文おゆるし下さい。



まず主人公の夏子は超冴えないメガネの女の子で なんでも1人で決められない。序盤に出てくる彼女の親友にもそれを指摘される。「できなきゃいけないことは1人でもやりなよ」と。まずその親友の言葉にズサズサと刺されて、その時点で私はこの主人公の夏子に相当感情移入して読み進める。逆に夏子に全く感情移入できない人間は多分この物語は肌に合わないと思う。文体も特殊だし 割と読みにくいタイプの小説ではあるけれど、刺さる人にすごく刺さるタイプの小説だからだ。第1章で夏子の友達は魔女によって次々と殺人されて(割と事故的要素が強いんだけど)夏子ひとりだけ生き残るけど、「友達殺したお詫びに友達なってあげる」と言われてされるがまま魔女の女の子と友達になるのだった。

魔女の名前はぬりえちゃん。ぬりえちゃんは超キュートなのにエキセントリックで自由で、でもどこか大人で、でもやっぱり子供だから残酷なのだった。ぬりえちゃんは人を助けないし、願いを叶えてあげるだけで、その後の責任はあんまりとらないのだった。夏子は振り回されてるようだけど、ぬりえちゃんと楽しく魔女家業をする。ぬりえちゃんは夏子がおどおどするからといって上から物を言ったりしないしいつまでも対等でいてくれるから、そこが素敵だなと思った。


過去の私にもぬりえちゃんのような友達がいて その子は絵を描く天才で、なのに私に金魚の糞みたいにつきまとうくせにいつも奇行で私のことを振り回していた。私も趣味で絵を描いていたからその子に嫉妬して いつも天才と凡人 ということについて考えさせられていた。そして夏子とぬりえちゃんの関係もそういう感じかなあとぼんやり思った。天才と凡人。天才と凡人は仲良くなれるようでいて、けして相入れないのでどうしても離れてしまうのだ。これは持論だけれど 天才は俗世的なことからかけ離れているから例えば結婚したとしても所帯染みたりすることはない、さもなければ結婚せずとも才能によって良い方向にも悪い方向にも進める。天才は波乱万丈なのだ。かたや凡人は普通の人生を歩むしかない。一般的に就職して結婚して結婚できなければ婚活して結婚できれば子供を産んで子供を産んだら孫の顔を見せてもらって老いて死ぬのだ。凡人には凡人の人生のフローチャートがある。天才には天才の苦悩があれど、それを凡人に理解したりすることは真の意味ではできないのだ。私の友達の天才の子も今何をしているのか見当もつかない。


夏子とぬりえちゃんも楽しく魔女家業をしていても、別れが来る。別れの後はぬりえちゃんは魔法の国で魔女修行だ。彼女曰く「プロい魔女」になるために。かたや夏子は平凡に生きて、平凡に老婆になる。大好きな親友の置き土産である粘土人形のブルース(比喩ではない)と結婚して、子供を産んで、老婆になるのだ。ブルースと結婚する展開も、読んでいて私は必然的に思えた。夏子はブルース以外と結婚したらきっとぬりえちゃんという大親友を忘れてしまうだろうし、夏子自身にもそれが分かっていたんだろうと思う。忘れてしまうことは怖いことだ。天才の方はきっと凡人を忘れているだろうけど 凡人にとっては天才を忘れてしまうのは非常に怖ろしいことなのだ。それは縋るような記憶だから。


私の一番好きな最終章は本当に泣けてしまった。胸が小さい針で刺されたみたいになった。ブルースとの死別のシーンなど涙が止まらなくなってしまってきつかった。この物語における一番の魅力的な人物としては、ぬりえちゃんがそうなのであろうけど、私としてはブルースも推したいのだった。はじめは粘土人形で外見は大人なのに脳みそはパッパラパーだったブルースは、ぬりえちゃんや夏子によって大人になっていき見目は変わらぬまま色んなことを吸収していく。彼がどんな思想でいくつもの四季を越えてきたのだろうと、想像するだけでもそれはそれはうつくしい。彼が夏子にしたプロポーズはまるで使い古した筆を水に溶かすみたいに色んな色が混じっていて小汚いけど綺麗に感じた。私はブルースがとても愛おしかった。夏子に感情移入しまくりながら読んでたせいもあるのだろうけれど。


この物語の端々に「地獄は来ない」というフレーズがあって、地獄は来ないから歩いて行っても良いのだ という意味合いだった。地獄ってどんな場所だろう、地の獄なんだからきっと愉快なところではなくて。でも、そんなのもなんか人それぞれなんだろうと思った。地獄に歩いて行こうが天国に走って行こうがどちらにせよそれを選んだ自分はいるのだから誰も責められないし誰のせいでもないんだなあと思う。過去の改竄とか、自分の推敲とか、自分の傷を亡き者にして修正するようなことは人生において私はあんまりしたくない。地獄も別にいいとこかもしれないし。現に私はこの物語を読み終えた今地獄が愛おしくて愛おしくてたまらないのだ。

海底

 

 

 

もう本当に嫌だ。何もかも嫌な夜ってのはある。そういう夜に限って日中は楽しかったりするからあー、さっきまであんなに楽しかったのに、という気分にさせられる。かなしい。私の場合だが、楽しかった感情はあまり余韻がない気がするのに、悲しい気持ちはずっとずっと沈殿している感覚。悲しいまま寝てしまうと次の日の朝も悲しい。明日は仕事だけど全く行く気になれないし起きれる気もしない。もはや、最悪。とりあえず布団に寝転んで毛布をかぶった。

 

私はこういうどうしようもない日や眠くならない日は、スマホを触らずに、目を閉じて、自分が海底に沈んで行くイメージをする。ふしぎと苦しくはない。仰向けで水面から、スーッと落ちて行くイメージ。辿り着いたのは海底。私はまだ仰向けのまま。魚たちは警戒して私をついばむ。少し痛い。目を開けることはしない。海底はすごく暗くて、でもなんだか落ち着くのだ。

このイメージは不思議だ。私が小学生の時からしているが、どうしても眠れないときもこれで眠った。でもこれは超個人的な好みで眠れるのであって、他の方におすすめしたところで眠れるとは思わないので、真似しないでください。

 

 

 

 

 

達成感と地獄

 

 

 

地獄みたいな夜だった。昨夜のことだ。膀胱炎になってしまい頻尿でトイレから出られず、なんとその時間約6時間。空が白むまでなかなか安心して眠れずに、トイレに引きこもっていた。孤独な戦いだった。ひとりでトイレに篭りきりはつらい。このまま死んでしまうのかとうっすら思った。ひと段落ついたかなと思ったところで、ふらふらと布団に入り眠りについて、起きたらだいぶ良くなっていた。死まで覚悟した時間は夢だったかと錯覚したが、6時間便座にあてがっていた尻が痛くて現実だと思い返す。本当に地獄的だった。健康について今以上に気を使わねばと心に決めた。

 

がしかし地獄だと思う一方で、私は歴戦の勇者のような気持ちであった。6時間座っていただけなのだが、なぜか誇らしい。何かを成し遂げた気持ちでいっぱいだった。ただ膀胱炎が良くなったというだけなのに。なにが私をそのような気持ちにさせたのだろう。時間か?状態が改善に向かったせいか?ひとりで孤独に戦ったからか?はたまた尻の痛みからか?よくは分からないけどたぶんその全てだ。私は色んな人に「自分は膀胱炎と夜通し戦った末、勝った」とあけすけに吹聴したくなった。もちろん大人なので欲求はあろうとも、心に秘める。誰も他人の膀胱炎の話なぞ聞きたくないのは分かる。自分の中だけのステータスとすることにした。それは、さすがに大人であるとも自由でしょう。

 

日々に刺激がないからこのようなことで達成を感じるのかもしれないなとふと思った。達成感というものは非日常にある。山頂に辿り着いた時の感情を表す言葉でよく使われるものが達成感であることから、登山というものは非日常である。趣味が登山の方に、いいえ私には日常ですと言われてしまうかもしれないがここでいう日常というものは衣食住としてほしい。衣食住に慣れていないという人間はごく稀だと思うが、登山に慣れていない人間はそれこそ山のようにいるであろうし。私は少なくとも、登山慣れはしていない。よって私が考える達成感を得られる状況というのは非日常下において何かをやり遂げた成し遂げたそのようなことである。と思う。断言したいのはやまやまだが私も考え方が変わる可能性が大いにある。なにが言いたいかというと6時間密室に籠ることに慣れる人生は嫌だということ、そのためには膀胱炎を綺麗に治したいなということただそれだけ。あ、今思ったけど病気を治す(重度か軽度かはさておき)ということも一種の非日常下での達成感かもしれない。そう考えると達成感いろんなところに転がっている。非日常下でもないのかもしれないな。はてな